お念仏、南無阿弥陀仏
「南無」「阿弥陀」「仏」は、インドの古典語であるサンスクリット語の音を中国語(漢字)に置き換えたものなので、個々の漢字の意味を調べてみても、「南無阿弥陀仏」の意味にはならないのです。従って、サンスクリット語の意味を調べますと。
1)「南無」は、サンスクリット語で「屈する」という意味でナマスという音です。南摸ナモと発音することもあります。中国語では、帰依、帰順、帰命などと訳され、心から信じる、任せる、従うという意味になります。
2)「阿弥陀」は、「無量の命(限りない命)」を表す「アミターバ」(Amitabha)という言葉と、「無辺の光(果てのない光)」を表す「アミターユス」(Amitayus)という言葉の語幹だそうです。無量、無辺、およそ、我々には量り知ることができないという意味です。
3)「仏」は、ブッダ(仏陀)というサンスクリット語で師匠とか先生という意味だったものが、時代とともに、仏教では、悟りを開いた者という意味で使い、お釈迦様や、その直弟子が亡くなり、かつて悟りを開いた人々の共通項を集めた抽象的な存在を表すようになったそうです。
つまり、「南無阿弥陀仏」とは、 2)我々には量り知ることのできない命と光を本体としながらも、 3)人よりは抽象的にして、悟りそのものよりは具体的な存在に対して、 1)心から従う という意味の様です。
お念仏は、あらゆることを自分中心にしてしか考えない私たちに、仏様が「それでいいのか」と問うてくださる呼びかけです。私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、仏様が私を呼びかけてくださるときです。お念仏は、人間を見捨てない仏様の願いが、まさしく南無阿弥陀仏の言葉となって、私たちにまで届けられた仏様の名告りなのです。 決して、自分の希望を叶えるためのものではありません。
本来の阿弥陀仏は、物事の道理や真実といった色も形もないもの(法性身(ほうしょうほうしん))であり、それを何とか形(絵像・木像)に表そうとして、教えを説くための方便としてのお姿(方便法身(ほうべんほっしん))なのです。木像の阿弥陀如来像をご覧になるとよりわかりやすいのですが、48の後光(四十八の願い)が私に向かって差しており、さらに前傾姿勢になっています。これは阿弥陀仏が私たちに、「物事の道理や、真実に目覚めよ」と呼びかけ、願いをかけてじっと座っていられなくて来てくださる(如来)ことを表しています。
先覚・安田理深(やすだりじん)師は、先の蓮如上人の言葉に続けて「壁にかけてある名号より口から出る名号、これが本当の生きた本尊」と語っています。つまり、本当に尊い生きた本尊とは、彫刻の阿弥陀如来(木像)や絵画の阿弥陀如来(絵像)、書の名号そのものではなく、人の口を通して“南無阿弥陀仏”と噴出するお念仏が尊いのであると、教えてくださっているのです。今、口に称(とな)える名号=南無阿弥陀仏こそが、本当に尊いご本尊なのだということを示しているのです。
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