「御文(おふみ)」は蓮如上人が門弟の要望に応えて、真宗教義のかなめを平易な消息の形式で著されたものといわれています。宗祖親鸞聖人の『御消息』に示唆を得て作られたともいわれていて、どんな人にも領解されるように心がくばられています。
五帖八十通の『御文』は教団が飛躍的に拡大した吉崎時代のものがもっとも多く、上人が一般大衆を精力的に教化されたことがうかがえるものです。
全般の内容をみれば、当時の浄土異流や宗門内で盛んに行われていた善知識だのみ、十劫秘事、口称正因などの異安心や異義を批判しつつ、信心正因・称名報恩という真宗の正義を明らかにすることに心を砕かれています。とくに「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり」という傾向に対して、他力の信心の重要性が説かれている。また本書の随所に、他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と言われていることは、上人の教学の特色です。
この御文は一つずつご紹介してゆきますので、ご一緒にゆっくり勉強していきましょう。
御文
この白骨の御文は浄土真宗の中興の祖といわれています第8世蓮如上人が、真宗の教えを一般の信者に教えるために、平易に述べたもので80通が納められています。そのなかでも、第16通は、「白骨の御文」として、人間のはかなさを諭したもので、葬儀や法事などで用いられています。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相を、つらつら勸ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形體(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらずあすともしらず。おくれさきだつ人は、もとのしづくすゑの露(つゆ)よりもしげしといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたへぬれば、紅顔むなしく變じて、桃季(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷屬(けんぞく)あつまりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり、あはれといふも中々おろかなり。されば人間のはかなき事は、老少不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿彌陀佛をふかくたのみまゐらせて、念佛まうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(現代語訳)
人間のはかないありさまをつくづく見つめれば、「およそはかないものとは、人がこの世に生れて死ぬまでの始中終、幻のような一ときである。それゆえ、1万才の寿命を受けた人を聞いたことがない。一生は過ぎ易い。今にいたっては、誰が100年の姿形を保ちえようか。私が先か人が先か、命の終わりは今日かも知れず、明日かも知れない。先立たれる人、先立つ人、それは草木の根元のしずくがしたたり落ちるよりも多いと言える。 それゆえ、朝には生き生きとした顔をしていても、夕べには白骨と化してしまう身です。無常の風が吹いたなら、二つの眼はたちまち閉じて、ひとつの命は永遠に絶えてしまいますので生き生きとした顔は空しく変わり果て、桃李のような姿も失われてしまったなら、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。野に送って荼毘にふし、夜半の煙となりはてれば、ただ白骨だけが残るのみです。あわれといっても、なおいい足りません。それゆえ、人間のはかないことといえば、老いては死に、若くても死ぬことのあるこの世ですから、どなたも早く浄土往生の一大事を心にかけて、阿彌陀仏に心から信心し、お念仏を申すべきです。あなかしこ あなかしこ
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