そういう風に勤める法要ですけれど、私たちが今、親鸞聖人と言う方の血縁でもないのに、その方の法要を勤めるということはいったいどういうことなのかなと思います。親鸞聖人とお一人お一人はどんな繋がりを感じてらっしゃるのでしょうか?こうやって集まった時に私と親鸞さんとは何だろうと考えて頂く良いチャンスではないかと思います。
ところで、今、日本には18万4千という数の宗教法人があるそうです。それに加えて、宗教法人未登録の団体がおよそ7万あります。それは例えば、占いとか洗脳して人を集めるという団体もあるようです。それらを合わせますと25万の宗教又は疑似宗教が有るわけです。凄いですね25万もあるそうです。総理府の発表によりますと日本の宗教人口は2億2千万だそうです。日本の人口が赤ちゃんも入れて1億2千万です。これは成人の数、8千万人とすると 一人当たり3つの宗教を持っている計算です。考えてみますとお正月には神社へ初詣に行き、12月にはクリスマスをお祝いし、最近、本牧方面ですと10月に「ハロウィーン」と言う「カボチャ祭り」が盛んになってきました。「ハロウィーン」ってキリスト教の亡くなった方が帰って来るお盆の様なものですね。こうして色々な宗教に関わりながら、関わってはいるけれど、宗教を求めている姿ではないということが見えます。
「私は無宗教だ」と胸を張っている人も居ます。宗教は洗脳されるから怖いという先入観もあるのですね。だけど、そう言った人に限ってカルトに引っかかるということもあります。おまじない、占い、霊魂の話し等は人の不幸につけ込み、町の至る所に網を張って勧誘しようと狙っています。そうしたカルトに引っかかると言う事は、昔から「困った時の神頼み」なんて言葉がありますが、生きて行く中身は楽しい事ばかりじゃなく、苦しいことや大変なことが沢山ある、だから、支えになるものがどうしても必要になってくる為なのだと思います。
或る方がこんな事を言いました。その方は人との繋がりも沢山あり非常に常識の有る方です。その方のご主人が長く癌を患って、とうとう亡くなってしまったのですが。ある時、「主人が亡くなる前に、一つの宗教だけを信じてはいけないと言われたし、私自身も宗教は大切だと思うので色々な宗教を学んでいく」と言われていました。このご主人はきっと本当の宗教というものをご存じなかったのではと思います。愛するご主人の遺言ですから、奥さんはこれを守っていこうとして居られます。あちこちの宗教の良いところを学んでいく。一見良さそうですが、良いところを判断するのは自分ですよね。だから、自分が良いと思った事を検証もしないで選び取っていく、これでは本当の支えにはならないと考えられます。ここではっきりさせなければいけないのは本当の宗教ってどういうものなのか考える必要があると言うことなのです。全部で25万もの宗教の中からどれが本当の宗教か。皆さん如何でしょう?どういうものが本当の宗教と思えますか?
親鸞聖人のご命日にあたり、何を真宗では言っているかという事をお話したいと思います。真宗は親鸞聖人がご自分の体験を通してお釈迦様の「法」や色々な事を発見された事が基になっています。本当の宗教と言いましょうか、「真宗」とは「真実を宗(ムネ)とする」と書きます。「本当の事を拠り所にする」と。本当の事とは絶対的平等性を持ったものである。一人一人の自由を認める、人を差別しない、人を縛り付けない。人には能力の差はあるけれど、人の尊さには違いはないのです。人の尊さは小さい人でも寝たきりの人でも同じですよね。そこが分からなくなりつつありますから、役にたたなくなると邪魔者にしたり、自分自身が邪魔者だと思ってしまったり、そんな傾向があります。人は一人では生きていません。人は人との間柄を生きているのですね。ですから、寝たきりの人は寝たきりのまま、私達に何か働きかけをしている。それを私たちが「まったく面倒だわ、世話が焼けるわね」という見方をしてはその人の問いかけが聞こえません。その人も私も同じ命の尊さがあると見ていければ、生きている価値がある、と見えてくるはずです。
本当の宗教は教祖や絶対者を立てません。教祖は人です。人はどんなに偉くてもどんなに勉強しても人は人なのです。人が持っている中身は誰でも同じです。人を絶対者にしては間違いです。仏教は何を拠り処にするのかと言いますと「法」です。お釈迦様じゃなくてお釈迦様が発見、自覚された内容が伝わってきて、それを私たちが学ばせて頂くという事です。ですから、教祖の言葉を信じさせて、寄付を集めようとするのはとても宗教とは言えません。人間が人間を救うということには限りが有ります。病気を治してあげようとか、幸せにしてあげよう、困った事を取り除いてあげよう、と言うことはよくあります。ついつい本当に困っていると、「やってぇ」と言いたくなりますけれど、ずぅっとそれが続くものではないですよね。例えば一回、二回はそれで出来たと言う事があるかも知れませんけれど、所詮人間がやることだと言う事を、良く見ていく必要が有ると思います。
もう一つは公開性、いつでもどこでも誰にでも言えること。これが本当の宗教です。どの国の人にも、どの時代の人にも通用する。この日本の今の時代しか通用しないというのは本物ではないです。真理というのは本当に変わらないもの、いつでもどこでも誰にでも開かれてくるものです。
親鸞聖人は幼くして両親と死別されて、その後9歳で比叡山に入り得度しました。そして、29歳で山を下りられます。その事を廻りからは修行から逃げ出したと言われました。比叡山の修行僧は国家公務員だったので権力者の為に加持祈祷等の儀式をするのが仕事でした。その中でエリートコースに入れる人はほんの一握りでした。そうすると、下界だろうが山の上だろうが人の欲望というのは同じで、名誉欲や地位の奪い合い等の競争があった事だと思います。そんな事に苦悩され、又、親鸞さんは男女の愛欲の問題にも悩まれました。比叡山の僧侶は女性禁断なのです。人間としてそこで生活していると何か違うのではないかと、そんな思いもあって29歳で比叡山を下りました。そして法然上人と言う人のところでお弟子さんになられました。そこでそれまでは貴族の為の仏教をしていたのを民衆の為、土埃にまみれて大変な思いで働いて居る人たちの為の仏教を開化されました。その内容は、難しい修行ではなく、誰かに何かしてもらうのでもなく、一人一人が「南無阿弥陀仏」を称えるだけで救われていくという世界のお話でした。「南無阿弥陀仏」だけを称えていればいいなんて簡単に言ってしまうと、これは眉唾ものに聞こえてしまいますけれど、その「南無阿弥陀仏」には十分な内容があったのです。
それからもう一つ本当の宗教は客観性を持つという事です。独りよがりにならないで自分たちで聞いた事を皆で話し合って、自分の考えを批判してもらったりして深めていく。そんな取り組みがされる処に一人よがりでないものが開けてきます。それが真宗の性質です。
ところで私も以前は「苦しい時の神頼み」の様なことで、宗教を求めるという事はありませんでした。しかし、ある時、お寺で3歳のお子さんが亡くなってしまったという事がありました。3歳なんて可愛い盛りですよね。私だったら、気が狂って立ち直れないのではと思いました。ところが1ヶ月くらいしてその方にお会いしたら、その方がとても落ち着いていらっしゃるのです。どうしてそんなに悲しい事があって、落ち着いていられるのかとても不思議でしたが、その方は真宗の勉強をとても良くしてらして、本当の事を知って居たのだと言う事に後で気が付いたわけですが、その様な事はお釈迦様のお話にもあります。逸話の中で、赤ちゃんを亡くしたお母さんがお釈迦様に助けて下さいと尋ねていきます。そして、お釈迦様は「救ってあげよう、だけど、一度もお葬式を出したことのない家庭から芥子の実を貰って来なさい」と言われました。お母さんは色々な家庭を回りますが、結局一粒も集められませんでした。どこにも葬式を出した事のない家はなかったと言うのです。そして、そのことからそのお母さんはよその家でも皆死んでいる、死ぬのはそんなとんでも無い事じゃなくて当たり前の事だったと気が付いてくるのです。これがその人の救いになるのです。私たちは救いと言うと何か違うものが違った方向に助けてくれると思いますが、救いってそうじゃなくて、自分のそれが納得できるって事なのです。 だけど、自分の頭では、自分の思考では自分の思いが強いからなかなか納得できないんですよね。お釈迦様が言われたような感じで筋道を立てて考えさせられると、なる程これが本当の事なのだという事が沢山出てきます。こうして本当の事を知っていると何かあったときに非常に役に立つというか、「転ばぬ先の杖」になると、その時から私は思い始めたのですね。そうすると成る程、宗教って勉強しておくと何かあった時に助けになるなって思ったことでした。ずっとそう思っていたのですが、たまたまよその住職と話しをしていたら、「それは違うよ。転ばぬ先の杖じゃないんだよ」って言われました。他に何があるのだろうって思って聞いてみたら、「安心して転べるんだよ」って言われるのです。安心して転べる。だから、転ぶことを心配して杖を突くのではなくて、杖もなく転んでも、安心して居られる世界を知っているって事だよって聞かされて、「成る程」と、なんか似たようで、全く違う事を聞いた思いがしました。
私たち子育てで、自分自身についても、つまずかないように、失敗しないように気を使いながら、あれこれ心配する事がありますが、安心して転べたらどんなに楽かと思います。そしてこの安心して転べる世界を親鸞様が正信偈の中に沢山の言葉を尽くして書いて下さっています。今日は、一つ一つについてのお話は省きますが、「え?」と思う事が沢山あります。とんでも無い事を言っている場所もあります。例えば、非常に面白いと思うのは、私達色々な悩みは自分の中の煩悩が悩みを起こすと言います。だから煩悩は無くすように無くすようにと。修行ってそういう事ですよね、煩悩を無くすようにする。だけど親鸞様はこの本の20頁の中程に「遊煩悩林現神通」と書いておられます「煩悩の林で遊ぶ」。煩悩を悪いものとは書いてないのです。煩悩は人間の、私の部分だから無くす訳にはいかないのです。いのちはいのちですよね。そのいのちを生きながら煩悩がその廻りにくっついていると言うのでしょうか、煩悩自体が私。いのちは私が作ったものでは有りませんから私のものではありません。だけど、知らないうちに「いのち」も「私」もゴチャゴチャになって、いのち自体を私の物のように勘違いしていきます。だから困ったことがあると、「面倒だからもういいや」って死んでしまう。それはいのちを自分の物だと思っている、自分の物にしてしまっているのですよね。よく考えてみると「いのち」で生まれてきて、気が付いてみると「私」、「私」、と言って来ているだけのものですよね。そんな「いのち」と「私」の違いを親鸞聖人が「いのちの事」「私の事」としてここにぎっしりと書いていらっしゃいます。命の事で言えば、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と、この2行にこの本の集約された親鸞聖人の仰しゃりたかった事が詰っている。ここに「命」と有りますものね。「命へ帰る」、「無量寿」、この無量寿の「寿」も「命」という字ですよね。私たちの命は自分の一生の命なんかじゃなくて長い歴史を頂いて、その歴史の中から私が生まれてきた。去年、絵本をご紹介させて頂きましたけど、私の命は決して私だけのものじゃなくて、地球誕生以来ずぅっと脈々と繋がった命がお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、曾おじいさん、曾おばあちゃん、とずっとつながって、たまたま私として生れさせてもらっている、そんな「命」が私の「命」です。その事がこの絵本には非常に分かりやすく「無量寿」のイメージが描いてありますけど、決してあなただけの命では有りません。そして決して止まらないと言うか、ただただ長い命の繋がりの中のほんの一瞬を私として生かさせてもらっている。そうすると、たまたま頂いた「命」を私はどうやって生きていったらいいのか?せっかく生まれてきた私がどうしたらいいのかな?という問がそこから出てくるのではないでしょうか。
平成23年に親鸞聖人750年の御遠忌がお勤めになります。その時のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」と発表されていますけれど、これは「私が私の命を生きている」じゃなくて、「私として命が生きていてくれる」。命が生きていてくれなかったら私は居ない、死んでいるって事なのですよ。その「いのち」は、私が人にどんなに意地悪しても、悪い事しても、悪い事を考えても、「いのち」は諦めないのですよね。命は諦めないで「しっかり生きなさいよ」 「生きなさいよ」と、生きよう、生きようといつでも働きかけてくれている。これは命の力強さと言うか、しぶとさと言うか、凄いなって思うのですよね。それだけ、いのちがしぶとく私を生かしてくれている。なので、ついつい、そこに気が行かなくても大丈夫って言うか、すっかり忘れてしまうのですよね。だけど、命には、しぶとく生きて行くと言うのと、ストンと終ると言うのが在るのです。私たち生まれる時には死ぬ約束もされて生まれて来て居るのですよね。死ぬのがいつかは誰も知らないですね。 ただ命だけが知っている。だから、しぶとく生きて呉れて居るけど、ある時ストンと、冷徹というか本当に冷たく終られてしまう。これが私の有様です。だけど私たちはなかなかそれを実感として持てないものだから、いいわ、いいわ、これは今日じゃなくて明日やろうか、もうちょっと先にしようかなんて、先延ばしにしてしまいます。けれども命は今しかない。今生きている事だけが事実で一分先の事実なんてないですよね。このことを親鸞聖人はこの赤い表紙の勤行本に「今しかない、今をどう生きるのか」と書かれているのです。
その命は、私は、どの時代のどこを探しても私はこの一人しか居ないのですよね。それだけ価値がある。誰とも代われない。誰と代わる必要もない存在。だけどそれで限りがある。だから非常に大切で、大切でどうしようもない存在であるのです。けれど日常ボヤーとしたりして、どうでもいいような事ばかりしている様なことがあります。そんな命で生きている。命は私達を支えて生きて呉れていますけど、じゃぁ 煩悩の私はどう生きていくのかっていう事があります。それでは「生きる」ってどういうことなのでしょうか?「生きる」って、まぁ仕事しますよね、収入を得ますよね。それが「生きること」なのか?じゃぁ寝たきりの人は生きることを止めているのかどうか、命が働いているかぎり、私はどう生きるのか?という事があります。人間って書きますけど、明治時代まではそれを「ジンカン」って読んだそうです。「ジンカン」って読んだから人と人の間柄を生きる存在だってことが、その漢字の読み方からよく分かったそうです。それが今、「ニンゲン」と読み方を変えたことで何が「ニンゲン」だか、どんどんどんどん薄らいできているそうです。人と人の間柄を生きるのが人間。人と物、人と他の命の間を生きるのが人間という事だそうです。そうすると、私達が生きると言うけれども一人で居るわけじゃなくて色々な関わりの中で生きていく、その関わりの中で、どう生きていくことが十分に生きたと言う事になるのか、そういう事を考えたら良いのではないかと思います。
今、沢山の自殺する方たちが居ます。これはお年寄りや若い方たちもそうですけれども、やはり、いろんな事で不安なのですよね。皆、安心が欲しいのだけど、その安心な世の中が作っていかれない。それは廻りの状況が整えば安心かと言えばそうじゃないですよね。経済的にゆとりが有って、両親も揃っていて、いろんな事が揃っている様だけど、心の中が不安。だから、環境が揃っていれば心が安心かというと全く違っているような気がします。先程お話しました「安心して転べる場」、「転べる環境」と言うか、考え方が安心を感じさせてくれると言う事なのではないかと私は思っています。お寺の入り口の掲示板に「大丈夫だよ 生きていけるよ」って書かれてありました。私達「大丈夫だよ」って言ってもらうと本当に安心しますよね。そして、もう生きて行かれないと思っても、「いのち」は生きていっているのですよね。自分の煩悩が「もう生きて行かれない」って思ってしまう。何が「大丈夫」か、と言えばその環境が大丈夫なのではないのです。この出てきた問題を自分の思いだけで見ると、もうどうにもならないけど、実は360度の見方があるのです。こういう事がありました。私の同級生でご主人が亡くなってしまったのですけれども、入院していた時に経済的にも大変な時期にその奥さんに会ったら「私こんなこと言ったら変に思われるかもしれないし、誤解されるかも知れないけど、今とても幸せなの」と言うのです。何故かと言うと「主人が元気な時には、こんな風に二人で話し合う時間はなかったのでずぅっとこういう時間が欲しかったの」って言うのですよね。「子供の話も充分したかったのに出来なかった。だけど主人が入院して、こんな状況になってから、今まで私がしたかったことが出来るようになっている。実際は何やかやと大変だけど、でも私、今幸せなの」と言うんです。こういう話しは幾つか有りますよね。私達が自分の思いだけで感じたり考えたりすると、どうも潰れるしかないという事でも、色々な人の関わりの中で教わる事が出来るという事だと思います。
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