八藤紋と遊林寺

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「盂蘭盆会」

去年もお話したと思いますが。 お盆とは「盆」に「お」を付けてお盆と言っています。正式にはご案内にもお出ししましたが、盂蘭盆(ウラボン)と言い、ウランバーナという言葉が語源です。ウランバーナという言葉の音を写して「音写(おんしゃ)」と言いますが、音を写して盂蘭盆と言っています。ですからお盆と言いましても字だけでは本当の意味が分からないところがあります。このウランバーナの意味は倒懸(とうけん)言い、倒懸(とうけん)というのは逆さまに成っているということです。

一般にはお盆だからお経を上げなければいけない、お寺にお参りしなければいけない、ご先祖が帰ってくるから、と言われて居るようですけれども、私が先ほど(盂蘭盆会表白文)を読みましたけれども、もう一度そこのところだけを説明しながら読みます。
尊者目連(そんじゃ もくれん)。目蓮(もくれん)という名前のお釈迦さんのお弟子さんのお母さんが生きていました。お母さんは物を惜しむというか、わりとどちらかというと、独り占めにしがちな、そういう方でした。で、その方がお亡くなられて。お亡くなりになったら、逆さ吊りといいますか、餓鬼道に落ちて、餓鬼の世界に亡くなって落ちていっている。それが、目蓮さんには見えたと言うのです。目蓮さんはどういう人かと言いますと、神通力と言って、物を見通す力を持っているというふうに言われている人です。その方が自分の神通力を持って、お母さんが餓鬼道に落ちていることが見えてしまった。そしてその母をなんとか救いたいんだけども「お釈迦様どうしたらいいですか?」と言って、お釈迦様に教えを請うたとこれがそこに書かれていることです。で、餓鬼道に落ちて塗炭の苦しみを味わっていると書いてあるんですが、塗炭とはどういう苦しみかと言いますと、欲しい物が出てくるんだそうです。で、欲しい物が出てきて手にしようと思ったとたんに焼けて消えてしまって炭しか残らないという状態になっているという。ほしくて出てくるんだけども手に入らないという、そういう苦しみを味わっていると。それを何とか助けたいのだ。だけど。助けるにはどうしたらいいかという事がお釈迦さんに目蓮が聞いた事だそうです。でそうしましたら、お釈迦さんが言われるに、こういう雨季の安居(あんご)と言うのですけど、夏のお説法会みたいなのがあります。それが終わった時に −ここからが本題なんですが− すべからく「三宝に供養すべし」、その言葉を受けて、目蓮は「すなわち目蓮、仏語に従いて亡母餓鬼道の苦を免れたり、これ盂蘭盆会の起こりなり」とこういうふうに書かれています。
ですから、「亡き人の恩愛を偲ぶ者、往古より仏前に詣で三宝に供養し奉って今に至る」のである。こういう風に言われています。で、私たちが今ここに居るのは三宝に供養するためだとだと言う事なんです。

これを言いたかったので、表白文を読ませてもらいました。

私たちが三宝に供養すると言ってもなんかこうぴんとこないのではないでしょうか? 私たちがやっているお盆と言うのは三宝に供養するのではなくて、亡くなった人にお経を読んであげる? 読んであげないと可哀想? とかそういうのが私たちのやっているお盆になんじゃぁないかと思うんですけれど、そこが全然違うところみたいですね。 本来のお盆というのは、こういう時を大事に、三宝と言って、それは先ほど読みました、「至心(ししん)に三宝に帰依し奉るべし」と三帰依文(さんきえもん)にあります。 三つの宝に帰依し奉るべし、これに殆ど同意語だと思います。 仏、法、僧です。 倒懸(とうけん)と言っているのもここが私たちが帰依しなくていいものに帰依しているからこそ迷うんだと、そういう意味で、倒懸(とうけん)と言ってるんだと言っていいと思うんです。

私たちはお盆だからと言って、亡くなった人の為にやってあげたと言うことを通して自分が満足してしまうんです。 ひどい言い方かも知れませんが、実際私たちが行っていることはそんなことです。 「あぁこれで故人も喜んでいることでしょう」と言う風になります。よく法事の後で施主さんが、「これでお陰様で無事終わりました。これで故人も喜んでいることでしょう」とまとめられてがっかりする法事があります。法話の時にはそういう事でないことしか言ってないはずなんですけれども、どうもなかなか染みついていると言う事もありましょうし、受け取って頂けない苦しさがあります。

だけど、私たちが大事に供養すべきものは。 供養とは供えるですね。養う。亡くなった方に向けて、何かを供えたりして、何かを養ったりしているのかどうかと言うこと。これ根本的な問題です。供養というのは元がやっぱり、讃嘆(さんだん)供養でして、喜びほめたたえていく私たちに向けて供えられたり、私たちに向けて養われたりするような仏さんの徳をという事が供養の基本なんです。ですから、亡くなった方にむけていいご供養するというのは基本的な語源として間違いになっています。(浄土真宗としては)

しつこいようですけれども、供養は亡くなった方に向けてするのではなくて、こちらが、生きている私たち、法事に集まる一人一人が供養される立場に居ると言っていいと思います。 そういうところも逆さまなんです。 逆さまになっているということですから。目蓮さんが神通力で見たと言っても、神通力で見たわけではなくて、私の思いをそこに投影しているという事なんです。 そうではなくて三宝に供養すべし、とお釈迦さんが言われているのは本当に人間にとってどういうことを大事にすべきなかという事に立ち返れと言っていると言って私はいいのではないかと思っております。

例えば、仏法僧とは。 仏というのは迷いを迷いとして感じられる。仏の事を正覚といいます。正しく覚るという事です。覚りを得たものを仏と言います。それに対して、私たちは自分で何でもいろんな事を分かっているつもりになって、実はあんまりいろんな事を分かっていないということです。ですから、自分たちは分かっているつもりになっていますから、だからこそ三宝に帰依すべしというお言葉が出て来る訳なんです。私たちは「法話の時間」等でもいつもいいますけれど、実は迷っているのに迷っていないと思いこんでいる 私たちの思いこみの世界のありようです。ですから、例えば、仏事でもこうだよといくら私がお話ししても今までの自分の感覚を頼りにしますので、なんかあの住職おかしい事言ってるなとは思ったとしても、私ってなんか間違っていたのかしら?とそういう風にはなかなかいかない。根深いそれぞれの思いがあります。そういう事に気が付いていくのも三宝に供養するという事の一つになります。

法とか僧とかというところにも少し触れさせて頂きたいのですが、法は真理とか法則 間違いのない道理。と言っていいと思います。道理というものに帰依すべしと言ってます。

私たちは迷わないようになっていくこと、それから自分の力でいろいろ神通力もそうですけども、自分の力でなんとか解決していくことこういう事を大事にしようという風に教え込まれて育ってきていますが、実は私たちの力ではどうにもならないこと、そういう事も沢山あるわけです。ですけれども、なかなかそれを認めたくないのも又、私たちのありようかとも思います。 法というその真理と言われたり、間違いのないもの。ですけれどもそれは私達に何を教えるかと言いますと私達は結構あやしいということを教えると言っていいとおもいます。「自分の力というのは、あまり当てに出来ないなぁ」というところにはなかなかいけない、「私の考えって大丈夫かな」ってところにはなかなか行かないで、「貴方の考えっておかしいんじゃない?」という話しになるのも私たちの習性。その習性みたいなものを教えてくるのもまぁ法と言っていいんじゃないかと思います。

で、僧というのは、衣を着ている者を総称して僧といいますが、衣を着ている者だけをさすのではなくて、その仏と法とか、そういうものを重んじて行こうとしている人々(これは単数でなくて複数なんですけれども)それを僧伽といいます。サンガとはそういう人と人の重んじていかなければならないところを共に理解し合っていく、又それは迷いの世界に居るって事を気付いていこうじゃないかという仲間、そういうのをサンガという風にいいます。で、三宝に供養すべしというのはそういう事を言っています。ですから、お経を読んでもらって苦を免れたんですけれどね、それはお経の中に書かれている私たちの迷いの世界。そしてそれを見定めた仏の世界に触れてそこを重んじて行くなかに自然に供養がなされていく、仏さんに向けてしているような供養に見えて、そこから私たちが供養されるということで救われて行く、亡き母がすくわれていくと言う事が起こったんだという事がそこで書かれているのです。

こうして今日もお盆でこうしてお集まりいただいて本当にご苦労様でございますけれども、これは一重に故人の為に集まったと言うよりは、故人様を通して、ご自身の為にお出まし頂いたと言う事になります。現代的な言葉で言うと、本当に先立たれた方のご苦労を受けて、それぞれご自身があります。そして、それぞれも本当に掛け替えのないものとして実は生きています。意識出来ているかどうかは別です。それはもうお一人お一人の問題です。でも真理として、法として考えますと、お一人お一人、大変尊いお一人お一人。掛けがいのない者としてある。そういう事を忘れてしまいがちな日々のお暮らしの中に、こうして夏になりますとお盆という形で皆さんを仏さんがお招きになる訳です。そのお心を受け止めて頂いて、それぞれの生活をより深めて行って頂く、そう言う集いを今日もさせて頂きました。

2006年7月17日「盂蘭盆会法要」でお話したものです。
遊林寺 住職 本保 淳

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update 2006/07/30 製作/管理:ono
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