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「往  生」
(私を超えた私との出会い)

「往生」という言葉は、日頃のお勤めの最後に「往生安楽国」と読まれています。お勤めの結びともなる大事な言葉です。(赤い勤行本の101ページ参照)

「往生」は「往きて生まれる」と書きますが、世間一般では死後の世界に行くことを「往生」と言われているようです。 これは、「死後の世界(来世)がある」ということが大前提になっている考えのようですが、浄土真宗の「往生」の意味とは全く違うようです。
浄土真宗においては、私たちひとりひとりが「無量寿なる世界(国若しくは所)」には居ないと言うことになります。 では、私たちは、今、どういう所に居るのかと言うことが大きな問題として教えられてきているのです。 どういう処と言っても、これは地理的な場所の問題ではなく、「何に依っているのか?」。つまり「生きている」その根本に何を見据えているのか?という問いかけなのでしょう。

仏教は、私たちが「濁」(じょく)の中に居ることを教えます。「濁り」と書きますが、「濁」のことを総称して「無明」や「闇」と言ってよいと思います。 「正信偈」の中で、「已能雖破無明闇」(イノスイハムミョウアン)と言う言葉があります。「無明の闇」の内容は、「分別」、「身勝手」、「損得」、などを生きる基準にしえいる。 そこに大きな問題があることが教えられてきます。
「正信偈」では、その「無明」の上に「破」と書いて「無明の闇を破る」と親鸞聖人は教えられています。それを「往生する」といってもいいと私は頂きます。 私たち本当に問わなくてはならないのは、「どうしたら、うまく生きられるか?」ということではなく、「何を拠り所として生きていくのか?」ということなのではないでしょうか?

しかし、私たちの思考の基本は、「自分のことはよく解っている!」なんです。例えば、夫婦の事なら「連れ合いの事はよく解っている」、親子の事なら「子供の事は解っている」、社会人なら「世間の事は解っている」、「大体こういうものだ」、「そうに決まっている」。と「自分には解っている」と思っている事を「無明」というのです。それは私の思いを中心にして物事を分別していくと言う事なのです。「分別」、「身勝手」、「損得」などを、当たり前にしてそのことを問うことを失っている私たちが居ます。

又、同じく「正信偈」に「悉能摧破有無見」(シツノウザイハウムケン)(15ページ)。そして「有無を離るとのべたもう」(99ページ)。
「有無を離れる」というのは「分別を離れる」ということです。
「有無」の「有」とは自分にとって都合のいいこと(欲しているもの)、自分に取って都合の悪いこと、若しくは関係ないのだと思うことが「無」です。 ですから関心のあることを「有」といいます。関心の無いものを「無」といいます。「無」の中身は、居るにもかかわらず関心がないから居ないかのごとく扱っています。それを「無」。そして「有」の方が逆にね、自分の関心で物事に自分の好きなように色を付けている状態のことです。この「有」「無」を離れると言うことが「往生する」といっていいと私は頂きます。

さて、ここで扱われている「離れる」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。
「自分の関心(分別)でしか見ていない。」と教えられてみれば、なるほど、その通りです。しかし、それを「離れる」と教えられると、今度は「自分の関心で見ることを、やめることができる」と考えてしまいがちです。
でも実際、「分別しない」ということが私たちに本当に出来るのでしょうか?
親鸞聖人は浄土真宗の教えを「分別しないようになる教え」として説いているのではないと私は頂いています。
何でも自分にとって都合のいいもの悪いものに分けてしまう。そのことによって大事なことを見失う。自分の大事さも、周りに居る人の大事なことも。そのことに気づかされる、これを「離れる」といっていいのではないでしょうか。自分の分別で自分を縛って、苦しみの元を自分で作り出している。この悲しい現実に頷き続けていく、そこに人と生まれた私たちが悲しみのうちにも何を求めて歩んでいこうとするのか?人として大事な課題が照らし出されてくるのでしょう。その課題の担い手として歩み続けていくその歩みを「往生」と言葉で教えられていると思います。


2006年5月28日「往生」(私を超えた私との出会い)と題してお話したものをまとめてみました。
遊林寺 住職 本保 淳

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update 2006/06/17 製作/管理:ono
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