なぜ門徒というの?
門徒とは「一門の徒輩(とはい)」、つまり一つの宗門の仲間という意味です。
蓮如上人の時代になって、他力念仏の教えは急速にひろまり、本願寺は日本有数の大教団になったことで「門徒」といえば、「真宗の信者」として通る様になったようです。以来、門徒といえば真宗門徒、門徒寺(もんとでら)といえば、真宗寺院を指す言葉として、定着してきました。真宗の門徒たる立場をもっとよくあらわすものとして、「御同朋(おんどうぼう)、御同行(おんどうぎょう)」という言葉があります。仏さまに救われることをよろこぶ人は、世俗の地位や男女、年齢など、あらゆる違いをこえて一切が平等であり兄弟、姉妹であるといわれるのです。
浄土真宗の教えをいただく真宗門徒は、雑多な迷信的なものや一般に使われているエンギなどをすべて排除しています。そのために門徒もの知らずなどと言われていますが、それはもの忌み知らずと言う事で、根拠の無い忌み言葉や行いを無視していると言う事なので決して恥じるどころか、むしろ自信を持って受け止められると思いませんか。
ちなみに、エンギとは「縁起」と書き仏教の根本思想をあらわす大切な言葉です。この世の中の一切の出来事は、必ず縁があって起きています。それを因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)とも云い、全ての現象は無数の関係(縁)によって生じていることを表しています。言い換えれば、私が今ここに、こうして居るのはそうなるためのたくさんのご縁があって、つまり因縁生のお陰でこの状況に居ると言うことでもあります。一般に平生にエンギがいいとか悪いとか言うのは、そういう存在に対して自分に都合に合うものをエンギがいいと言い、悪いものをエンギがわるいと言っているのです。しかし、それらは仏教で言う「縁起」を誤解した用い方です。 仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)」を説きます。どんな出来事にも、かならず何らかの縁があって起こり、常に移り変わっていく、それをありのままに、正しく見つめて真実を求めようとするのが仏教の態度ですから、およそ「エンギをかつぐ」などという世界とは根本的に違うのはいうまでもありませんし、何より今自分が居る事ができているたくさんのご縁にただただ感謝したいとお思います。
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