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− 浄土真宗入門【阿弥陀様に抱かれて】 −
第十四回
『・・・ よき人がですね、念仏申せ、念仏申せと、勧めてくださった。念仏して弥陀にたすけられよと。弥陀にたすけられよというのがあんた、決断ですがね。もう、じゃどういうことが弥陀にたすけられることなのかとかいろいろ学んでやね、あるいは見当してやね、その結果ね、「ああ、そうか、それならお念仏申そうか」と、そんなまだるっこしいことじゃない。そんなことでね、決断できるもんじゃないです。
納得したものはね、次に崩れる。その時その時だけのものなんだ。また崩れなきゃおかしいわね。自分の納得なんてものはあんた、たいしたもんじゃないんだから。壊れていくことによって新たに頷けるものが出てくる。十年前に頷いたことをいつまでももってまわっとったってね。崩れるということが大事でしょ。それが現実のもっておる大事な意義ですわね。そして頷かれたことが深まっていく。つまり頷くということは限りなく掘り下げられていくものです。
ですからそこに、念仏申そうとか、聞法するとかね、決断、決断を呼び起こしてきた。もうそれは難思の弘誓としか言いようがない。自分の考えでもないしね。念仏すればたすかるから念仏するようになった、そんなもんでもない。』
思わず苦笑してしまいました。 「聞法すれば、たすかりそうだからお寺へいく」というのは間違いなく私のご縁のできた出発点だからです。 前回から「難思の弘誓」という難しげな言葉が出てきていますが、教えが分かった気がするとか、イヤやっぱり分からないとか、救われるためにはどうしたらいいのかとか、どうしたらお念仏を称えられるようになるのだろうか。 もういろいろ考えようとしていること自体に徒労のようなものを感じてきます。 そして同時に思い出されるのが、以前に読んだところですが、とにかく「聞法会」に足を運ぶことが大事なんだと、そして、お話を聞くこともさることながら、そこに来て聞法している人の姿を見る(姿に触れる)ということがとても大事だというお話です。
『聞法したら何か利益があるとかね、そんなことを考えておるんじゃないんです。まあ、そういうことを考えておるときもあるわね、聞法するとなんかいい処に往かれると、お浄土に往かれるとかね、楽になれるとか、そんなことを心で考えておるかもしれんけど、そうじゃない。念仏申すとこういうふうになるんじゃないかとか、そんなこと予想しとるわけじゃない。決断というものは、予想をしたりしてですね、決断をするというんじゃない。もう決断は、念仏申すと、こういう決断。聞法すると、本願に帰すと、こういうね。それを勅命といってあるんです。』
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