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− 浄土真宗入門【阿弥陀様に抱かれて】 −
第十六回
先日の報恩講で戴いた一楽真先生の御本、「この世を生きる念仏の教え」の中の一部です。
『信心とは阿弥陀さまのことを疑わないように頑張ることではないのです。阿弥陀さまが何かご利益をくださるかもしれないといってお願いするという話ではありません。そうではなくて、阿弥陀仏に教えられないと、どちらを向いて歩んだらいいのかわからない、そういう私であるということがはっきりした。それは疑いようがないという目覚めであります。これを、浄土真宗では信心という言葉で語ってきたわけです。
しかし、この信心が決定するということは、とても大変なことです。なぜかと言えば、自分は仏法がなくてもこの世を生きていくことができると思って居る。つまり自分はどこか賢いと思っているからです。
親鸞聖人は自分のことを愚かだとおっしゃっていましたけれども、私たちは賢いと思って居るのです。だから、仏教というのはお葬式のときに世話にならないといけないが、娑婆にいるあいだは必要ないと思っている人がけっこう多いのです。
私にとって、仏法がなくてはならないということが決まる。これが信心決定です。そのことがはっきりするだけでも、なかなか大変です。ところがひとたびはっきりしても、またぼやけていくのです。「この教えが生きていくうえで大事だ」と、いったん気がついても、またすぐに見失われていくということが起きるのです。・・・・』(37頁)
そのあとのほうに、蓮如上人のおふみの「御浚えの御文」、「・・・細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」を例に、信心をいただいたといってそこで腰をおろしてしまってはいろいろな物が詰まって大変なことになってしまう。 だから法水(聞法)を溝に流し続けて自分が向かう方向が定まっていくように歩み続けなさいと云う事のようです。「救われる」とはこの「信心決定」のことかも知れません。「救われたい」と願い、救われることを最終目標とするのではなく、「救われていく」、「どっちを向いて生きていくか教えられ続ける」という事かと思います。それは生き方の頼もしい道標となるのだと思います。 そう言えば確か、「腰をおろしてはいけない」と宗先生の御本で以前に読んだはずでした。「どっちを向いて生きていくのか」ということは「自分の中の本当の自分を探すこと」を生きることの手立てとする。そして「聞法を続けていかなければならないわけ」は、内観して、教えが生きていくうえで大事だと分かって達成するのはなく、分かってもまた見失う、そしてまた教えが大事だと気づく、その繰り返しが「内観の道」。 「内観」ではなく「内観の道」。 自分の中の声を(その道を行けという声、来いと誘う声と共に、たくさんの声で道を逸らさせようとする一見魅力的と思ってしまうような呼び声も)聞きながら自分はどっちの方向へ行くべきかを問い続ける、そのことが「すくわれる」事なのかも知れないと思いました。
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